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 阿保美代さんの作品に
 ◇ 気づかれない暗喩 
illustration ©MIYO Abo 1972-1999 
 最近になって、初期の阿保作品の中に、さりげなく隠しこめられた暗喩の数々に気づいた。

 そもそもこんなものを入れている漫画家がどれほどいるのか。 あったとしても、もっと意図的に、後でそうと分かるような事柄があったりするが、 阿保さんは、絵の中にさりげなく隠すようにするから、なかなか気づかない。

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 昨年サイトを開設する前、ネットをざっと調べた時、それを指摘したものはなかったと思う。 それ以前に、阿保美代という存在が日本では消えかけている、…と台湾の留学生の方が嘆いているのを見て、 私も確認して、驚いたのだった。

 そこから自分で作品を見ていった。すでに発表から30年経っている。 もちろん、こうした暗喩にお気づきの方もおられるでしょう。それを静かに味わっているファンの方々。 ただ、よっぽど入り込んでいる人でない限り、分からないのではないか。

 それはかなり細かいし、画面の中に溶け込ませている。 というか、普通、そんな微細な表現が隠されているとは思わないから、素通りしてしまう。

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 いくつか、レビューの中でも書いたが、 何より驚いたのは、「仕事始めの唄」の、鳥の鳴き声であった。 これは、雑誌の判も大きくて、印刷も鮮明だったから気づいたが、新書や文庫になっていたら、 細かすぎて分からなかったと思う。 しかし気づいたことで、題名の意味も作品の価値も大きく変わった。

 単行本に入っているものでは、「10月の笛」もだ。 あの葬列。どんよりした雲だけならいざしらず、彼岸花が画面のこちらに咲き乱れているから、 また人間がマッチ棒のようであるから、しかも大きくもない横長のコマ。 まさか、あれが、10人ほどの人間が棺おけを運んでいる葬列の図だとは、私はずっと気づかなかった。

 当時からのファンの方々は、皆さん、あの葬列に気づかれていたのでしょうか。

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 私の場合、きっかけはこれまた台湾である。台湾版の『陽だまりの風景』が、『十月的笛』だったことから、よくよくその作品を見たのだ。 どうみても、ただの悲しい叙情メルヘン。あー読みたくない。 しかし、レビューを書こうと決めて、グッと入ってみて、初めて気づいた。 なんだこれは。

 直後の大きな並木の印象も変わる。ただの林の風景ではない。 あの樹木は、大人の暗喩のようだ。大人たちの葬列の中に、少女を失った彼が、ポツンといた、その孤独感と哀しみ。 それが前の野原(子供の遊び場)とも対比され、大きく象徴的に描かれている。


「10月の笛」 (『陽だまりの風景』 p.112〜113)より (C)阿保美代/講談社
「10月の笛」 p.3〜4より (※clickで拡大)
(©阿保美代 1976/講談社)


 少年の涙の意味も、様々に見えてくる。 そうして数ヵ月後、この作品はさらに自分の心の中で育ち、ゾッとするものになった。 音がするのだ。10月の笛の音が。最後の場面から。 それは言葉に出来ない。

 あの最後の「トーン」だって、文字だと認識していない人もいるだろう。 微細な文字だし、読み流せば、水の跳ねた描線にも見える。

 しかし、そこに入ったときに、阿保美代の漫画は、読み手の前に、別次元の世界を開いてくれる。 そこから、読み手の感性や経験を投影して、新たな作品になっていく。 だから繰り返し読めるし、価値を失うこともない。

 そこに、阿保美代作品の、永遠性の原理があるのだと思う。

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 また、「月夜のちゃわん」の最後の対話もミステリアスだ。 話している一方は、「お月さま」で、もう一方は、「茶碗の絵付けの女の子」だろう。

 女の子は、月の光を浴びて、割れた欠片の表面から魂として吸い上げられた。 そしてポツーンと、四次元空間にいる。その子に対して、月は語る。「もうお行きよ。私は眠りたい」と。 月はもう、彼女を救い上げたことで、少し疲れたのだ。もう夜明けも近いし、眠りたいと。

 しかし、あの子はどこにいくのか。行く宛はあるのか。 それは最後のナレーションでも語られる。 あの場面を思い出しただけで、鳥肌が立ち、ゾッとする。凄い感性だ。

 これもまた、私の感覚では付いていけない。 けれど、分からないなりに感じるものはあって、 私は「月夜のちゃわん」を、阿保美代の残した傑作のひとつだと思っている。

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 しかしながら、その価値に気づいている人が、日本には少ないのではないか。 この目に見えない部分を察する感性が、私も含めて、落ちてしまっているのか。 アボサン同様、ファンの方々が、あまり声に出さないこともある。それ以前に、言葉にしづらい。

 また、そこには日本の漫画批評家の怠慢もあったろう。 阿保作品の価値を見抜く審美眼がある人が、またそれを明文化する人が、殆どいなかった。 海外の台湾では、「日本心霊漫画的始祖」とまで評価されているのに。

 とはいえ自分だって、2010年の春までそうだったのだ。 ずっと、「甘いメルヘン」という先入観で阿保美代を見ていた。 しかし違っていた。

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 アボサンは全盛期の頃になると、暗喩というよりも、もっと、明るく開かれたものになっていく。 細かく世界を装飾するような。たとえば、『時計草だより』の中の、「かげぼうし」。 ここに宿屋の中の絵が少し出てくるが、よく見ればそこに、様々なものが描かれている。 これを見るのはとても楽しい。

 つい軽い絵だからと、サッと読み飛ばしてページをめくってしまいそうだが、 手を止めて目を凝らして細部を見ると、おかみさんがどんな料理をつくっているのかとか、 どんな趣味なのか、様々なことが分かる。 そしてここから阿保さんの洒落たセンスを分けてもらえる気がする。

 ああ、阿保さんのファンは、こうしたものを、ゆっくり見ながら、 この世界を味わっているのだ。私は、雪だるまさんや、ファンの方々のちょっとした言葉から、 インテリアや、ポエムに、そんな見方があるのか、と驚いて、 その度にまた一歩と進んできたのだった。





2011-10-29
著者:ライラック
illustration ©MIYO Abo 1976




□ 付記── サマタイムのこと、ゆりかごの歌のこと


 読みながらふと覚えた違和感のようなものが、何かに気づく入り口や、きっかけをくれることがある。 大島弓子の「サマタイム」(レビューはこちらでも、最後の2ページにあって、私はここの部分がとても好きだ。 少しご紹介します。

 全16ページの作品。15ページ目の最後のコマ。村の遠景に、主人公トオルの「必ず帰るよ、おみやげもって」というモノローグが入る。 ページをめくって最終ページの1コマ目。トオルの言葉が続く。「だが、俺は帰らねばならない。帰るのだ」と。

 これ、一見して、おかしくないでしょうか。「必ず帰る」といって、また同じことを言っているのだから、 普通は、「そうだ」「その通り」など、順接になるはずです。 なぜここで、「だが」なのか。


「サマタイム」 (『綿の国星F』 p.171)より (C)大島弓子/白泉社

「サマタイム」 (『綿の国星F』 p.172)より (C)大島弓子/白泉社
上は15pの最後のコマ、下は16pの最初のコマ。
「サマタイム」より (©大島弓子 1984/白泉社)


 私は最初、これは、「だが」という言葉を使って、決意を強調しているのかと思っていた。 「いや、もっと本気で、」という感じ。なるほど、上手い使い方だと。 でも、やっぱり違和感があって、ページを何度かめくり直して、やっと真意が分かった。

 実はこれ、前後の流れを読んでも分かるのですが、 ここでは、15pのモノローグが、コマの右上に書かれていることに注目してください。 背景には、幻想的な山村の遠景。左と下に大きく余白が空いている。 (このページの他のコマには、こんな偏った余白はない。)

 この余白に、右の言葉「必ず帰るよ、お土産もって…」に続く言葉や情感があるのだけれど、 それは表だって書かれない。それを埋めると、次ページの「だが」が自然になる。

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 サマタイムを読んで、このポイントに気づかれる方は、どれほどいるでしょう。 まずストーリーを把握して、このトオルの感情も読まないといけない。 日本の少女漫画ファンのリテラシーは非常に高いといわれるから、 当然のように読み取っているのかもしれません。

 ただこれについても、同じような指摘を知らない。 私も、今年の春以降に何度か読んで、初めて気づいた。 これまた20年前には全く考えもしなかったことだ。

 そして読み解けた時に、当時相当に高い境地に行ってしまっていた大島弓子の感性の世界に、 少しだけ近づけた気がして、嬉しかったものだ。 それは阿保さんの深いイメージの世界に入れた時と共通するものがある。

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 ところで、この「サマタイム」、どこからが幻想なのか。

 私は、あの村や人はあの時までは実在していて、それが核によって一瞬で失われて、 体がなくなり魂だけになった彼が、そこから妄想で紡いでいったもので、 それに途中で気づいたけど、それでも村に帰りたい、ということだろうと思っていた。

 とはいえ実際よく分からない。で、知人に聞いたら、 「全て幻想でしょ。あの村も人も彼女も元々全部ない。これは仏教でいう空(くう)の世界を描いているのだ。」という答えだった。 自分が「へ?」と目をパチクリさせると、「いや、私も分からないんだけどね」と。

 言われてみれば、「人間どもの巣篭もりの村へ」という台詞は、それぐらい突き放した認識だ。 しかしそうだとすると、自分には高次の話すぎて、全くついていけない。

 それは、子供の頃に、宇宙とは何かとか、この世とは何か、自分とは何だ、なぜ存在するのか、 なぜ必ず死なないといけないのか、 と、ぼんやり考えた時と同じような頭の状態になる。

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 そうして思い出すのが、阿保美代の「ゆりかごのうた」(『時計草だより』)である。

 そこでは、一本のくるみの大木が、自分の起源をたどるのだ。 そのたどり方、そして最後、まどろみ眠るところ。 阿保さんは、美しい絵と詩で、ひとつのファンタジーとして、その時空を越えた宇宙観のようなものを描いた。 そこには、人が一度は考える、自己の存在の元を探るような、普遍的な哲学があると思う。

 そして、「サマタイム」。生活感に満ちた日常が、いつしか夢に変わり、しかしその全体が幻想であると気づき、 それでも村に戻るのだと強く決意する、その凄み。 話のラストを、「だが」で繋げて、意思を畳み掛けるように重ね、最後、ミヨちゃんが手を振るシーンで終わらせた、大島弓子の見事さ。

 描き方は違えど、どちらも高く深い世界だと、20年以上経った今、気づきました。





2011-10-29
著者:ライラック
illustration ©YUMIKO Oshima 1984


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