以前見た『ぱふ』誌の中で、
阿保作品を評して、「高次のイメージファンタジィの世界」という表現があって、
なるほど、そう捉えればいいのか、と思った。
そこでは主に絵と言葉について触れられていたが、
自分にも思い当たるところがある。
かくいう私は、今年2010年の春に初めて、阿保さんの作品の真価にやっと気付き始めた。
以降、読むたびに発見があり、しかし未だにどう捉えて良いか分からない作品も多い。
当時'70年代からの熱心なファンの方々が、どんな思いで、
阿保作品を大事にしてこられたのかも、まだよく分かっていない。
それはともかく、最近、音について、少し感じたことがあったので、書いておきます。
* * *
たとえば、「10月の笛」(『陽だまりの風景』)では、
ラストシーンを迎えて初めて、そのタイトルの意味に気づかされる。
私の場合、読み終わって、本を閉じて、その後、
1ヶ月以上して、ハタとそれに気づいたのだった。
以来このタイトルを聴くと、体がゾッとするようなところがある。
というのも、ある時私は、序盤のピーピー草の音を「4月の笛」と置き換えたのだった。
春の青空の下、少年少女が楽しく遊ぶ、明るく元気な音。
それをイメージしてから後、
全く対照的なものとして、最後の場面から「10月の笛」の音が聴こえてくる。
「10月の笛」の終盤の1コマ。少年の涙が湖面に落ちて、水の輪が広がる。
そこに「トーン」の文字が、細く小さく書かれる。
この「トーン」(写真上)は、阿保さんが限界まで切り詰めた、音色の表現だろうか。
文字として認識できるギリギリの形象で、離れて見ると、跳ねた水のラインにさえ見える。
作品の最後は、少年がその音に
「ピーピー草の音を聞いた気がした」とのナレーションが入って終わる。
少年にはそう聞こえたのだろう。
しかし読み手の私は、今やそこからも離れ、先の「トーン」をもとに、彼とはまた別の音を聴くようになった。
それは無音に近い、けれども胸の空洞で鳴るような響きで、
あの場面を思い出すと、それが聴こえる。
* * *
また別に、「ぴあの」(『お陽さま色の絵本』)
という作品では、阿保さんは擬音を一切使わず、その絵と見事な言葉のフレーズで音のイメージを呼び起こす。
最後に至る3ページは圧巻で、雨の降る窓際に、猫が歩み、じっと佇む。
猫は何を聴いているのか。
見ていて、胸が張り裂けそうなシーンだ。
と同時に、ここは読み手それぞれで、音の聴こえ方は異なるだろう。
無音に近い人。雨が葉を叩く音、また時々窓をつたうの水の音を聞く人。雨のザーザーというノイズだけ。
さらにその奥に、優しいピアノソナタの旋律を聴く人。
「ぴあの」の終盤の1コマ。窓の外の雨が、優しく葉を叩く。
(※ピアノ奏者だった飼い主の老人を亡くした猫の話)
そして、こうした音のイメージ表現の到達点と言えるのが、
「緑のことば」(『くずの葉だより』)になるだろうか。
青年のオーボエは鳴っている。しかし女性は何を聞いているのか。
読み手は立場を変え、緑の溢れる絵の中で、想像を巡らせる。
「冬の華」(『夏のてじな』)では、
雪の降る白昼の林の中で、口のきけない少女が、嬉しそうに空を見上げて口を開け、何かを歌っているようだ。
しんしんと降る雪の音に、自らの夢の歌声を託したようにも見える。
* * *
私はこうしたアボサンの、音に対するイメージ表現も非常に優れたものだと思う。
もし分からない、という方がおられたら、作品をゆっくり読んでみてください。
それはきっと心の中で育って、ある日聴こえてくるはずです。
ロマンシリーズなどの初期の作品には、
一見しただけでは、薄く浅い叙情漫画にしか見えないものも多いです。
しかしそこに入り込めた時に、意外なほど深い、情感に溢れた世界を発見できたりする。
それは阿保作品を知る人だけが味わえる、豊かな感性の世界ではないでしょうか。
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