このサイトを作り始めても、しばらくは、
私はどこかで、阿保美代という人を、甘いメルヘン作家と見ていた。
かねてから抱いていた先入観が抜けきらなかったのだと思う。
そうして、どこかナメているところがあった。
しかし色々と作品をじっくり見てきて、アボサンは天才的というか、
遥か雲の上の人なんだと感じるようになった。怖いし、遠い。
凡人の私が批評していいのかとも。
特に凄いのは、'70年代後半〜80年前後の作品群である。
この時期、アボサンは多作で、しかも質も相当に高い。
創作がノッておられたのだろう。
この水準のロマンティック&ファンタジックメルヘンの短篇を、
他に描ける人がそういるとは私には思えない。
つまり、24年組の巨匠の方々と、このジャンルに限れば、並ぶと言っていいと思う。
私はそれより下だと思っていたが、どうもそうではない。
只ならぬ世界がそこにある。
* * *
先日、「時計草だより」や「くずの葉だより」を再び読んでいて、恐ろしささえ感じた。
「お陽さま色の絵本」や「陽だまりの風景」でも、しばしば同じ気持ちを覚えた。
例えば、「月夜のちゃわん」という作品。
主人公は、割れてしまった湯飲み茶碗。
その表面に、鞠をつく女の子の姿の絵付けがあった。
カケラとなってゴミ箱に捨てられた彼女は、その現状を嘆き、幸せだった時を回想し、
夜、窓に映る月に問いかける。
それは洗練されたモノローグと、美しく抒情的な絵で表現される。
ところが最初読んでいて私は、なぜ、"壊れた陶器の欠片"に生命を感じ取らなければいけないのか、
と全くワケが分からない。
しかし絵と言葉に導かれ、少しずつ感情移入して、最後のシーンに行き着いた時、心がゾッとした。
これは適当に読み流せば、何のこともない作品──甘く切ないメルヘンとも読める。その方が楽だ。
しかしこの世界に入り込むと、私はアボサンの感性と想像力に畏怖を覚えてしまう。
こうしていつしか、阿保美代という人が、巨匠のように見えてきたのだ。
* * *
阿保さんのファンタジー作品の中に、時折、人生や宇宙の深淵を見るような気がする。
それはメルヘン調で包んであるから気付きにくい。
宮沢賢治の童話の中に、狂気を感じることがあると思うが、それに似ている。(?)
しかしアボサンの国内での評価はあまり芳しいものではない。今や消えそうなぐらいだ。
批評対象としても殆ど挙がらない。
私の目がおかしいのか、世間が未だ気づいていないだけなのか。
知っていても、かつての私のごとく偏見の中にいるのか。
とにかく、どれかの本が復刊されるか、新たに作品集の一つでも出ないと、
それを打ち破るのは厳しいかもしれない。今の人は触れる機会すらない。
だから一冊でもいいから、講談社さんに再版してほしいと願う。
2010.07.20
著者:ライラック