今年3月、東北を襲った巨大地震の後のことだ。知人から連絡があり、
しばらく安否を話した後、不意に、「大島弓子の"サマタイム"って覚えてない?」と言われた。
内容を聞くと、少し覚えがある。
田舎を舞台にした話で、村が停電か何かになって、
母親が冷蔵庫の余り物で料理を作り、村人を呼びに行く。
そのやり取りが何とも微笑ましくて、好きだったのである。
その印象だけが残っていて、あとは記憶にない。
聞くと、知人は、あの震災後、この作品を突然思い出して、家の中から探し出して、
読んだのだという。そしたら驚くべき話だと分かったと。
それで、今こそ知ってほしいからと言って、後日、本を貸してくれた。
* * *
今回、私は、20年以上ぶりに読んだ。
やはり後半の意味がよく分からない。
それで、また最初から、途中から、とページをめくり直し、
やがて、なるほど、そういうことか、と分かった。
確かに、これは凄い作品だ。
以下、あらすじを書いておきます。
「サマタイム」(大島弓子・作)の粗筋
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地方の小さな山村。
真夏の夕飯時、落雷か、大音響とともに送電線が切れ、村中が停電する。
主人公トオルの母は、冷蔵庫の残り物で沢山の料理を作り、
父は雨の中、隣の村人たちを呼びに行く。
トオルは幼馴染の婚約者、実与子(ミヨちゃん)に会いに行く。
この村や人や風景が好きだと語る彼女。二人は来週結婚し、同居する。
翌日、村長と村人たちの手で送電線は修理される。
そんな中、結婚式に出るために帰郷するはずの友人が来ない。
上京しジャーナリストになった信一。
トオルは、心配する信一の母に頼まれ、ミヨちゃんにお土産を約束し、
バスと電車を乗り継ぎ、東京の信一の住所に向かう。
東京は相変わらずの混雑ぶりだ。
彼のマンションに着くも不在で、大家さんに中へ入れてもらう。
雑然とした部屋、その片隅に結婚祝いの贈答品。
電話のそばにメモ。そこには、「世界戦争突入」の文字と、
日付と時間、ミサイルの名前、「!」が並ぶ。
日付は数日前、村の送電線が切れた日。
トオルは考える。このメモは事実かデマか。
彼は様々に思いを巡らせて…。
ふと気づくと、そこは帰りの電車の中だった。
彼の手には信一からの結婚祝。彼は、それが「妄執」だと自覚する。
あの落雷らしき瞬間から後のことも。
そして彼は、村へ帰ることを決意する。
村には山や川、牛や村人たち。好天の下、野菜も収穫時。
ミヨちゃんが微笑み、手を振る姿。
彼女は、あさって家に来るのだ。
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トオルが気づいてからの最後の2ページは圧巻だ。
透徹した意識で、彼は自覚しつつ、その世界に浸ろう、帰ろうと決意する。
ここの描き方が普通でない。
綿密に日常を描きながら、気づいてみれば高次の意識の世界になっている。
あの、世情がバブルに向かって物質欲に流されていった時代、
大島さんは、もっと大事なものを見つめ、高みに達していたことを思わせる。
でもこれ、読んですぐに意味が分かる人はどれぐらいいるんだろう。
私が鈍感なだけか。
自分はずっと、トオルの認識と事実が繋がらず、
帰りの電車で眠って、変な夢を見て、目覚めて日常に戻った、夢オチの話かと思っていた。
* * *
私が何度読んでも好きなのは、停電下の村での、家族や村人たちの生き生きとした振る舞いだ。
互いの支えあい、素朴な共同体の姿が、丹念にユーモラスに描かれる。
そして、こんもり茂った緑の木々や山川、虫の鳴き声、美味しそうな料理も。
「ゴロゴロ」「チリーン」「ごとんごとん」などの擬音も、雰囲気や効果をよく出している。
その手書き文字もいい。よく見ると、これらの音が、
重要なポイントや転換点になっていることに気づく。
またトオルの回想にもある、所々に散らされた違和感。これも読み返すとよく分かる。
しかし何よりおかしいのは、あの部屋のメモだ。
あれだけは想像も及ばないことだから、
誰かが彼の意識の中に置いたんだろうか。
…と考えると、頭がこんがらがってくる。
「サマタイム」(2〜3ページ目)より (©大島弓子 1984/白泉社)
もしこの「サマタイム」が手元にある方で、
内容はうろ覚えという方がおられたら、
また手にとって読んでみたらどうでしょう。
この作品は、
古くは、『綿の国星 7巻』(白泉社)に収録されている。
探したら私の家にもあった。
開くと、前後に短編(「ジギタリス」「サヴァビアン」)があり、
それに挟まれた本作のラストはページの右側。
余韻に浸ろうにも、左ページに可愛い猫「サバ」の絵があって、
ついついそちらに目がいってしまう。
だからか、この話の後半が腑に落ちないまま、
東京帰りに悪い夢でも見たんだろうと、
軽く済ませてしまったのかもしれない。
* * *
今回私が借りたのは、
『ダリアの帯』(白泉社文庫)という文庫本で、
これには、'83〜85年の7作品が収録されている。
本作ラストは無論右ページだが、
左ページは次の作品のタイトルのみの、ほぼ空白といっていいページになっている。
こうなっていると、次の作品の絵に惑わされず、ラストシーンの余韻に浸りやすい。
この配慮で、ずいぶん作品一つ一つの印象が変わるものだと気づいた。
版の大きさでは新書判に分があるが、余韻の浸りやすさでは、この文庫本の方が良かった。
もし、阿保さんの作品が将来文庫本で出るとしたら、同様の配慮を願いたいと思う。
* * *
最後に今回、「サマタイム」はじめ、
文庫本に収録された表題作のほか、「快速帆船」「乱切りにんじん」などを読んで感じたことがある。
大島先生の描くキャラクターは、理性的で、芯が一本通っている気がする。
みな、まなざしが強く、対象にしっかり向き合う。
絵も、しなやかで、不思議にふわっとして、透明感がある。
男性の多くは、中性的でスマート、さっぱりしている。
作品中、台詞や説明は多いが、洗練されていて、気にならない。
コマ割も綺麗に整理されていて、見やすい。
話にスパイスやユーモアも効いて、楽しい。
これらが、天賦の才能と感性をもった大島弓子のファンタジーを支えていること。
そして、私には、魂というものがあるのかは分からないが、
死後の視点に立って初めて感じられることがある。
好きな人や故郷や、自然や動物や、それを無情に奪うもの。
本作は、その契機をくれる作品と言えるのではないか。
付記として、阿保美代作品の中で、「サマタイム」に近いものを挙げておきます。
戦時を扱ったものだと、「とても美しい小さな朝」(1974)がある。
全24ページ、フランスの短編映画のような見事なドラマだ。
高次の世界を描いたものだと、
「真夏に真綿の雪がふる日」(1979)が名作。
これは「サマタイム」に全く引けをとらない。
全体的に似ているのは、「あかいくつ」(1977)でしょうか。
自然溢れる山村という舞台、時期も盛夏、お盆の頃。
嫁入り前の村の女性、「おら」「すべ」などの方言、美味しそうな料理、
子供の頃に遊んだ回想シーン、都会から男性が戻ってくる設定。
…とはいえ、これらは田舎なら共通するテーマだし、内容そのものは全く違う。
「あかいくつ」(2〜3ページ目)より (©阿保美代 1977/講談社)
また両作は、扉の絵と、ラストの絵が似ている。
家の柵の向こうで若い女性が立って微笑んでいる絵と、
草むらで身の丈ほどの枝茎に囲まれた人の絵。前後は逆だけど。
もしや大島先生が、阿保さんの「あかいくつ」を読んでいて、
そのイメージが、あの作品に繋がった可能性はないか。それかオマージュとか。
私がそう知人に聞くと、「関係ないと思うよ」と一笑に付された。私の妄執か。
そもそも、大島先生も、阿保先生も、様々な文芸作品に触れておられてるから、
いち漫画の影響と考えること自体、ナンセンスだろう。
またむしろ、阿保さんが、先輩である大島作品から学んだ部分も色々あったでしょう。
* * *
さて、このお二人は、
繊細なタッチや、高次のファンタジー、優れた美意識など、共通点がある。
少し見比べたら、阿保さんは擬音語が少ないことに気づく。
雨のシーンに象徴されるが、
音さえも絵で表現しようとしているように見える。(大島さんは「ザー」と書く)。
これは、阿保作品の魅力でもあり、大島作品にはない弱みかもしれない。
その世界に入り込めれば、読み手のイメージを反映して音は鳴るが、
そうでなければ、薄い叙情漫画として読み流されてしまう。
繊細で深みもあるが、こちらから入っていかなければ真価が分からないものも多い。
だからこそ、そこに入れた時の発見や感動も、ひとしおなのだけど。
2011.05.17〜
著者:ライラック
illustration ©MIYO Abo 1977