「あかいくつ」! なんて生き生きとして、切ない話でしょう。
思えば、子供の時分にも、分からないなりに、不思議な印象が残りました。
そうして大人になるにつれ、徐々に意味や深みが感じられるようになってきた気がします。
当時の「月刊ミミ」の読者層(主に十代女性)に、
これを受け止められる方がどれだけいたのか、
むしろ単行本化されて、年月を経て再び読んだ時に、
この女性、田鶴ちゃんの複雑な心や切なさを知ったのではないでしょうか。
この作品を描いた阿保さん、当時23歳。
確かな人間洞察と、村の生活や、恋や別れ、四季に移ろう自然風景まで、
様々なものが描き出された貴重な作品です。
「あかいくつ」(阿保美代版)の粗筋
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近代日本の山村。
幼い少年、元(ゲン)は、昼間両親が働きに出る間、
向かいの家のお姉ちゃん、田鶴(タヅ)ちゃんに面倒を見てもらう。
彼女は花嫁修行中の身らしいが、陽気に快活にゲンと一緒に遊んでくれる。
童謡、折り紙、怪獣ごっこ。ゲンは田鶴ちゃんが大好きだ。
盆の季節。かつて町へ出て行った青年が、短大出のお嫁さんを連れて、村に帰って来た。
ゲンは村人らと一緒に見に行こうと田鶴ちゃんを誘うが、彼女は「行かない」と言う。
そして彼女は一人、林の中から、幸せそうに村人らと挨拶する青年夫婦の姿を見る。
そこに彼との幼少時代の思い出が重なる。
翌日、田鶴ちゃんがゲンに会いに来る。玄関には町から来たおばさんの赤いハイヒール。
彼女はゲンの前でそれを拝借して、履き、歌ってダンスのステップを踏む。
しかし慣れないヒール靴で上手く出来ない。
「これでは町の人にはなれないな」と寂しそうにつぶやく。
やがて秋。田鶴ちゃんは山の向こうの隣村に嫁に行ってしまう。
ある日、ゲンが一人で久しぶりに草むらに行くと、
そこにポツンとあの赤い靴が捨て置かれているのを見つける。
ゲンは彼女の踊る姿を思い出し、何かを感じて泣いてしまう。
赤い靴の童謡とともに…。
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物語は、アボサンの繊細なタッチの絵に、洗練されたナレーションと会話によって展開されます。
絵は全て手描きで、スクリーントーンは一切使われていません。
ゲンの純朴な性格や表情、田鶴ちゃんの陽気さ、その奥にある影。その微細な感情表現。
画面から溢れ出すような、春、夏、秋へと移ろう草花や木々。
生活感漂う村人たちの会話、そこから感じる古い因習のようなもの。
コマからコマへの流れも滑らかです。
わずかな、ペンで描かれているだけの世界なのに、しかもたった8ページに、
これほどのドラマがあるのかと、今更ながら驚きます。
4〜5ページ目。右下のコマ。田鶴ちゃんに目に、子供の頃の彼との回想が重なる。
左ページ。田鶴ちゃんが玄関の赤いヒール靴をこっそり借りて、歌い舞うシーン。
特に田鶴ちゃんの表情に注目してください。
本当に情感にあふれる、顔の角度、目や瞳の描き方、
これは、読み手によって、如何ようにも映り、
そして感情移入すれば、グッと胸に迫ってくるものがあります。
この一作、また一つずつのシーンに、どれだけ深いものが込められているか、
さり気なく描かれていて、今まで気づきませんでした。
ただなぜかこの作品は心に残るので、不思議に思っていたのです。
* * *
話を物語に戻します。
ところで、なぜ田鶴ちゃんは、赤い靴を勝手に借りておいて、返さず、
草むらの中に残したのでしょう。
返すのを忘れていたのか。
もしくは、あの後も一人、町へ行く夢を持って、
履きこなす練習をしていたのでしょうか。
更にもう一つ。田鶴ちゃんがお嫁に行った後、
ゲンは草むらで赤い靴を見つけて、田鶴ちゃんを思い出し、泣いてしまいます。
なぜゲンは泣いたのでしょうか?
彼女は隣村ですし、また会うことだって出来そうなものです。
私には分からなかったので、雪だるまさんに、どう思うか聞いてみました。(以下回答)
Q. なぜ田鶴ちゃんは靴を返さず、草むらに残したのか?
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もう触れたくない。返すとか、返さないとかの問題じゃなく、都会の象徴のものには、触れたくない。
自分は、触れちゃうと、「自分が都会のものにはなれない」ということを思い知らされる。
初恋のお兄ちゃんの隣に本当は並びたかったけれども、
隣に並んだのは、都会の綺麗な女の人だった。
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Q. なぜゲンは、赤い靴を見つけて、泣き出したのか?
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幼いゲンは、田鶴ちゃんの心を、残された赤い靴を見た時に、
分からないなりに感じ取った。
その時、田鶴ちゃんの本質、魂が立ち現れたんだと思う。
ゲンが泣いているのは、田鶴ちゃんを思い出して泣いているんだな。
それまで知らなかった田鶴ちゃんの一面──
ゲンの前でも少し見せたけど、気付かなかった、もっと深いところ── を、初めて感じ取った。
そこでゲンは一つ大人になったろう。
(回答:雪だるま)
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華やかな町の世界への憧れは、「赤い靴」に象徴されます。
彼女はそれを履きこなそうとしますが、滑ってしまう。
そのとき初めてゲンの前で、愁いの表情を見せるのです。
ゲンが「町へ行くの?」と問うと、田鶴ちゃんは黙ってうつむき微笑みます。
ここで前日の出来事に戻ってみれば、
あの時に抱いた感情が、
明くる日の、赤い靴を借りて履いて踊ろうとする動機に繋がっていくことが、よく分かるでしょう。
そしてまた最後、ゲンが、そんな田鶴ちゃんの本当を知って、ひとつ大人になったのなら、
このラストは、ただ単に悲しいシーンではなくなります。
人の深い心を知った少年の、成長の一瞬間を描いているのですから。
最終ページ中段2コマ。赤い靴を見たゲンの脳裏に、田鶴ちゃんの姿が蘇る。
ここから、赤い靴の童謡歌の流れる大ゴマのラストシーンへ。
この追想(写真上)の中では、
田鶴ちゃんが踊っている三つの角度、明るい表情から、愁いを帯びた表情まで、
一コマに描き出されます。ここからもまた、じっくり読み込んでいれば、
胸が締め付けられるような気持ちにならないでしょうか。
そうして最終ページをゆったり眺めると、
ひとつひとつのコマが、まるで映画のフィルムのように紡がれて、
アオイの花葉に包まれたゲンの泣く最後の場面が、
巨大なスクリーンとなって目の前に広がるのです。
* * *
さて、本作のタイトルの元であろう、
アンデルセン童話
(粗筋はこちら)
では、忠告を無視し、欲望のままに赤い靴で教会へ行った少女が、
靴によって日夜踊り回され、最後には足を切り落とし、神に懺悔することになります。
アボサンは、本作で、あの童話にあった禁欲的なキリスト教の戒律を、
東北の田舎の因習に置き換えたのでしょうか。
田鶴ちゃんが、秋になって突然お嫁に行ってしまった事からも、
彼女には、村の親同士が決めた許婚がいたのかもしれません。
どちらも逃れられないものとして、しかしそこから自由に羽ばたきたい。
そうして赤い靴を一時、少し規則を破って、履いたのです。
* * *
元祖の話は、アンデルセンにしては宗教色が出過ぎ、大仰で残酷さもあって馴染みにくいのですが、
アボサンの方は、日本の風物を背景に、
心の襞を撫ぜるような優しいストーリーに仕上がっています。
これは、「北の国から」(北海道を舞台にしたTVドラマ、1981〜)のごとく、
自然に包まれた村での、人間の生と心を描いたドラマですから、単なるメルヘンというよりも、
リアリズムのある叙情ドラマの掌編といった方が良いかもしれません。
アボサンの何か大切なものが込められた、容易に語りつくせない、心に響く一話です。
2010.12.26
著者:ライラック
illustration ©MIYO Abo 1978